もう二週間ほど前になりますがが、7月5日から6日にかけて福岡県の一部と、大分県のごく一部に降り続いた大雨による災害を「平成29年7月九州北部豪雨」と気象庁は命名しました。
Yahooの記事:「平成29年7月九州北部豪雨」と命名-気象庁(7/19)
この災害名の命名により、気象庁webでも既に使用されている他、この豪雨災害の状況を説明するページが出来ております。
気象庁web:平成29 年7 月九州北部豪雨について(PDF)
しかし少し前には、気象庁は命名に値するか迷っている、という記事もありました。被災家屋の数が基準に達していないかも、だそうですが、まだ被害の全容が完全に把握されていないためだそうです。
Yahooの記事:<九州豪雨>名前付けるか 気象庁苦慮 建物被害基準満たず
被災家屋の数が分からない、というのは、それだけ深刻な激甚災害であった、ということです。
私も、これまで過去の自然災害に関心を持ち、いろいろ資料にあたりましたが、今回のこの「平成29年7月九州北部豪雨」は、歴史に残るほど稀に見るような災害であったと思います。
同じ「九州北部豪雨」と命名されている、5年前の「平成24年九州北部豪雨」も史上稀に見る豪雨災害であったと思いました。
現在、地震で不通になっている豊肥本線の阿蘇近くで、トンネル内を大量の水が流れたため、トンネル出口(水流の下流側)で、レールがぐるぐる巻きになって放出されている画像があります。
あれを見て、震撼しましたね。どれだけの水が流れたのかがわかります。
豪雨災害で真っ先に思い出すものが二つありまして、1889年(明治22年)の奈良県十津川村の豪雨災害、1938年(昭和13年9の阪神大水害です。前者は奈良県の山間部にあり、長く降り続く雨で、十津川村の各所で土砂崩れが発生、その惨状は村外に知られることもなく、半月以上たって村の人が、何とかこの惨状を行政に伝えたいと決死の覚悟で山を越え、近くの大きな行政組織に伝えたものです。
その十津川村は山崩れが激しく、とても村が成り立たない、ということで、残った村民の多くは、村から離れ、当時新天地であった北海道に入植しました。その入植したところは現在「新十津川町」と名乗っております。十津川村から分かれて北海道に新十津川村が出来、それが後年町制を布いて新十津川町になりました。
1938年(昭和13年)の阪神大水害は、芦屋市から神戸市の中心部にかけての地域は、北側に六甲山系を抱く地形。
7月の梅雨末期の大雨が5日ほど降り続いて、六甲山系のマサ土と呼ばれる土壌が一気に流れ出て、まだ都市化される前の今の東灘区や、当時既に市街地だった三宮などが泥の海に見舞われました。
この阪神大水害も線状降水帯による降雨だったであろう、とされています。
阪神大水害の石碑、東灘区の住吉川から少し入った山間部に接地されています。元々は山間部でしたが、今や新興住宅地。
なかなか行けない所なので、グーグルストリートビュー画像から。
この住吉川流域も激しい被害があったと伺っています。この住吉川川から少し東に天上川が流れており、この天上川の近くに谷崎潤一郎邸があったことで谷崎氏も被災され、その様子を細雪作品に残しています。
平成29年7月九州北部豪雨の被災地域、報道では山の表面がマサ土(真砂土)であったとのことですが、阪神大水害の時と同じです。
逆に考えれば、この九州北部豪雨のような状況が阪神地域に繰り広げられたわけですね。
***
さて本日午前、気象庁から中国(山口県を除く)・四国から北陸地方を除いた関東地方まで梅雨が明けたものとみられる、の発表がありました。
今年の梅雨ははっきりしなかったため、いつをもって梅雨明けとは」なかなか言及できませんが、梅雨前線となる停滞前線の位置関係から、本日をもって「梅雨が明けたとみられる」の発表がなされました。
午前9時の天気図。気象庁webより。
気象庁のいう中国地方は、なぜか山口県は除きます。
九州北部豪雨があった九州北部は梅雨明けの発表はまだで、上の天気図で、等圧線が凹んだところが気になって、梅雨明けには至らなかったそうです。
しかし関東も東海地方もあっさり梅雨明けの発表に至りました。
昨日は関東地方、各地で激しい降雨現象があったそうで、都内では雹も降ったそうです。
結局、これが梅雨明けへの嵐となったのでしょうか。
実は雹は実物を見たことがありません。気象に関心がある者として、降水現象の一つの雹を実際に見たいと思っていますが、見ないなら見ない方がいいのかもしれません。降雹減少に遭遇すると、身の危機になるかもしれず、見たいわ見ない方がいいわで、微妙なところです。
Yahooの記事:「平成29年7月九州北部豪雨」と命名-気象庁(7/19)
この災害名の命名により、気象庁webでも既に使用されている他、この豪雨災害の状況を説明するページが出来ております。
気象庁web:平成29 年7 月九州北部豪雨について(PDF)
しかし少し前には、気象庁は命名に値するか迷っている、という記事もありました。被災家屋の数が基準に達していないかも、だそうですが、まだ被害の全容が完全に把握されていないためだそうです。
Yahooの記事:<九州豪雨>名前付けるか 気象庁苦慮 建物被害基準満たず
被災家屋の数が分からない、というのは、それだけ深刻な激甚災害であった、ということです。
私も、これまで過去の自然災害に関心を持ち、いろいろ資料にあたりましたが、今回のこの「平成29年7月九州北部豪雨」は、歴史に残るほど稀に見るような災害であったと思います。
同じ「九州北部豪雨」と命名されている、5年前の「平成24年九州北部豪雨」も史上稀に見る豪雨災害であったと思いました。
現在、地震で不通になっている豊肥本線の阿蘇近くで、トンネル内を大量の水が流れたため、トンネル出口(水流の下流側)で、レールがぐるぐる巻きになって放出されている画像があります。
あれを見て、震撼しましたね。どれだけの水が流れたのかがわかります。
豪雨災害で真っ先に思い出すものが二つありまして、1889年(明治22年)の奈良県十津川村の豪雨災害、1938年(昭和13年9の阪神大水害です。前者は奈良県の山間部にあり、長く降り続く雨で、十津川村の各所で土砂崩れが発生、その惨状は村外に知られることもなく、半月以上たって村の人が、何とかこの惨状を行政に伝えたいと決死の覚悟で山を越え、近くの大きな行政組織に伝えたものです。
その十津川村は山崩れが激しく、とても村が成り立たない、ということで、残った村民の多くは、村から離れ、当時新天地であった北海道に入植しました。その入植したところは現在「新十津川町」と名乗っております。十津川村から分かれて北海道に新十津川村が出来、それが後年町制を布いて新十津川町になりました。
1938年(昭和13年)の阪神大水害は、芦屋市から神戸市の中心部にかけての地域は、北側に六甲山系を抱く地形。
7月の梅雨末期の大雨が5日ほど降り続いて、六甲山系のマサ土と呼ばれる土壌が一気に流れ出て、まだ都市化される前の今の東灘区や、当時既に市街地だった三宮などが泥の海に見舞われました。
この阪神大水害も線状降水帯による降雨だったであろう、とされています。
阪神大水害の石碑、東灘区の住吉川から少し入った山間部に接地されています。元々は山間部でしたが、今や新興住宅地。
なかなか行けない所なので、グーグルストリートビュー画像から。
この住吉川流域も激しい被害があったと伺っています。この住吉川川から少し東に天上川が流れており、この天上川の近くに谷崎潤一郎邸があったことで谷崎氏も被災され、その様子を細雪作品に残しています。
平成29年7月九州北部豪雨の被災地域、報道では山の表面がマサ土(真砂土)であったとのことですが、阪神大水害の時と同じです。
逆に考えれば、この九州北部豪雨のような状況が阪神地域に繰り広げられたわけですね。
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さて本日午前、気象庁から中国(山口県を除く)・四国から北陸地方を除いた関東地方まで梅雨が明けたものとみられる、の発表がありました。
今年の梅雨ははっきりしなかったため、いつをもって梅雨明けとは」なかなか言及できませんが、梅雨前線となる停滞前線の位置関係から、本日をもって「梅雨が明けたとみられる」の発表がなされました。
午前9時の天気図。気象庁webより。
気象庁のいう中国地方は、なぜか山口県は除きます。
九州北部豪雨があった九州北部は梅雨明けの発表はまだで、上の天気図で、等圧線が凹んだところが気になって、梅雨明けには至らなかったそうです。
しかし関東も東海地方もあっさり梅雨明けの発表に至りました。
昨日は関東地方、各地で激しい降雨現象があったそうで、都内では雹も降ったそうです。
結局、これが梅雨明けへの嵐となったのでしょうか。
実は雹は実物を見たことがありません。気象に関心がある者として、降水現象の一つの雹を実際に見たいと思っていますが、見ないなら見ない方がいいのかもしれません。降雹減少に遭遇すると、身の危機になるかもしれず、見たいわ見ない方がいいわで、微妙なところです。