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Channel: mitakeつれづれなる抄
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金シャチ横丁着工

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 予てから高層に上がり、名古屋城の食事施設など、街の賑わいを取り戻したい、というコンセプトの、(仮称)金シャチ横丁の起工式があったとのことです。中日新聞や、ラジオ・テレビの報道です。

中日新聞記事:名古屋城前の金シャチ横丁起工式 来春にも開業

名古屋市web:世界の金シャチ横丁(仮称)基本構想(素案)(pdf) 世界の金鯱横丁(仮称)基本構想概要版(素案)(pdf)

 単なる名古屋城入場客の食事施設だけでなく、地域の名産などを販売したりするなど、情報の発信場所としての街の賑わい創出でもある、とのことです。

 CBCラジオの解説によれば、類似の施設が熊本城にあるとのことで、そこでピンときました。
 熊本城には、行幸坂のそばに、桜の馬場 城彩苑という一角があります。熊本地方の名産や名工品を販売するなど、情報発信の場でもあり、来場するお客さんの多くは、地元の市民であるとのことです。
 この市民が多いというのは、熊本城が市中心部にあり、街づくりの核ともなりえるもので、熊本市の市街地続きにこの城彩苑です。

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 そこでピンと来ました。この名古屋市の金シャチ横丁、市民も訪れるようにしたい、とのことですが、どの程度訪れられるのでしょうか。名古屋城が名古屋市中心部の移動で、必ずしも中心部とはいえない位置となってしまいました。

 場所はここです。マピオンから。

 名古屋農林庁舎の北側の土地。

 名城病院のレストランから、よく望めます。


 見えている建物が名古屋農林総合庁舎。この北側の森になっている部分に金シャチ横丁が建設されます。

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 名古屋市の市街地の変遷ですね。今でこそ200万都市、名古屋市で市域も広がっていますが、藩政時代から明治初期の元々の名古屋はごく狭い範囲です。
 そして、その中心部ともいえるのは、美濃街道でも本町通界隈、今の桜通本町から外堀通本町の一つ南の交差点までの間。
 この辺りはかつては茶屋町とも言われ、江戸時代、商いで財を成した茶屋家の屋敷があったところ。松坂屋の発祥である伊藤呉服店もこの茶屋町にお店8おたな)がありました。

 明治維新で、名古屋市街地の東の外れ、当時の新開地だった、このブログでも以前に降れた蒲焼町のある今の錦三丁目、ここが正式に蒲焼町と名付けられ、栄町も正式な町名となり、武平町に県庁が設置されると、次第にこの栄町界隈が市街地として発展してきました。

 これが近代に入り、鉄道開通、さらに新幹線で高速鉄道で他都市との経済交流が大きくなると、名古屋駅周辺が名古屋の中心部と発展するようになり、名古屋城界隈は、街外れになってしまいました。

 人の流れを、どのようにこの金シャチ横丁に導くのか、導けるのか、そこが鍵かもしれません。

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