昨日の推進回送話のついでで、客車列車について回顧話。
回顧、といっても私にとっては歴史の彼方で、資料から思いっきり当時の事を推測するのみですが。
昨日のブログ記事のような定期で運行する推進回送は、上野駅~尾久の操車場間だけで行われていたものですが、客車列車の最大の特徴であるところは、折り返しでは機関車を付け替える必要がある、というものです。
上野駅地平ホームでは付け替えが出来ないので、車庫へ向かう時と、車庫から上野駅へ向かうときは逆向きに走っていくわけですが、もし上野駅到着の列車がそのまま折り返してどこかへ行く運用の場合はどうなるのか?ですけど、それはありませんでした。
これが昔の列車運用の特徴であったもので、ある程度の距離を走行する列車は、車庫(操車場)で整備を行い、片道走行するたびに車庫(操車場)へ収容して掃除など次の仕業の準備をして、そして始発駅へ向かう、ということをやっていました。
なので、大きな駅の構内や近傍に客車操車場があったもので、上野駅では尾久客車区、東京駅だと品川運転所、名古屋駅だと名古屋客車区、大阪駅だと宮原客車区、です。品川運転所の他は現業機関名としては改称されながら現在も存在しています。
鹿児島の話をしますと、鹿児島本線・日豊本線の終点は鹿児島駅ですが、両線とも鹿児島駅始発終着の列車は少なく、殆どの列車、特に長距離の列車は全て西鹿児島駅、現在の鹿児島中央駅発着でした。理由はすこぶる簡単で西鹿児島駅に鹿児島運転所があったためです。
そのため長距離列車の鹿児島における行き先は「西鹿児島行き」で西鹿児島駅が実質的な鹿児島市の代表駅に。
時代は下がり、新幹線開業では西鹿児島駅に設けられることになり、鹿児島中央駅に変わったという変遷。
こうして、車庫(操車場)で始発前の整備を行った客車が始発駅に据え付けられ、行き先地に向けて出発→行き先地に到着、行き先地の車庫(操車場)へ入区、というのが片道の仕業。
なので、駅で折り返しを行って運用する、という思想はありませんでした。
折り返しをしてすぐに次の列車に充当する思想は「電車」の発想で、客車はいわゆる「汽車」の世界、折り返して運用するものではありませんでした。
この電車の思想を汽車の世界に持ち込んだものが、1950年(昭和25年)登場のモハ80形、通称湘南電車で、長距離ではなく、東京駅~沼津駅間の中距離列車ですが汽車の世界に電車列車が登場し、東京駅ではホーム折り返しの運用をおこないました。
当時の客車列車でも、中距離である沼津駅近辺までの列車は、ホーム折り返しでしたが、当然機関車の付け替え、という大きな作業を伴っていましたので、この湘南電車の登場は、運用の思想に大きな変化を与えたものです。
現在、特急列車が車庫へ帰らずに、駅ホームに停車したまま車内整備をして折り返して次の列車に就いていますが、これも電車の思想と汽車の思想が交じったものです。電車はすぐに折り返す、汽車は操車場で整備を行う、この車内整備を駅ホーム停車中に行ってしまうので、車庫への回送時間が節約でき、運用本数を減らすことができたり折り返し時間を短縮することで設定列車回数を増え、それがひいては増収につながるものです。
昨日の推進回送の話に関連して。車庫への行き帰りの回送列車は本体列車の列車番号に「回」の字をを付けた列車番号を付与しますが、推進回送を上野・尾久間の推進回送を行う場合は「推回」との文字を付けます。
上野発札幌行きの特急・北斗星は、列車番号が「1」でしたが、これが尾久から上野へ向かう回送列車は「推回1」でした。
車庫から駅への回送ではこんな話もあります(した。過去形)。東京駅から寝台特急が多数運転されていた頃、末期は東京駅ホームが新幹線転用で、在来線の線路数が減ってしまい、機回しができなくなってしまいました。東京駅発の寝台列車は全て電気機関車牽引の列車です。
そこでこんな方法をやっていました。
東京駅では、さくら・はやぶさ・みずほ・・・・の順で発車しており、品川の車庫から出発する時は一つ後から発車する機関車を着けて東京駅へ向かいます。東京駅到着で機関車を切り離し、機関車は神田駅方の引き上げ、有楽町駅方の機待線に待機の機関車を連結して、目的地へ発車、ということをやっていました。
神田駅方の引き上げ線に引き上げた機関車は、寝台列車が発車していった線路を通り、有楽町駅方の機待線へ入り、本来牽引する客車の回送を待ちます。
よく分からない文章ですね。つまり事前に「さくら」のヘッドマークを付けた機関車を東京駅まで回送しておき、さくら号の次に発車するはやぶさ号のヘッドマークを着けた機関車が、さくら号の客車を引っ張って東京駅まで回送します。
東京駅到着で、はやぶさの機関車は神田駅方へ逃げ、有楽町駅方のさくらの機関車をさくら号の客車に連結して16:30に発車。
開いた線路を通り、はやぶさの機関車は有楽町駅方の機待線へ移動。
しばらくして、みずほのヘッドマークを付けた機関車がはやぶさ号の客車を引っ張って東京駅に到着、有楽町駅方の機待線に待機のはやぶさ号機関車を連結して発車・・・、こういうことを繰り返して順次やっていました。その日最後に発車する寝台列車の品川からの回送を引っ張った機関車は、次の列車が無いので、そのまま車庫へ帰ります。
ちょっと客車の回送から回顧話でした。
回顧、といっても私にとっては歴史の彼方で、資料から思いっきり当時の事を推測するのみですが。
昨日のブログ記事のような定期で運行する推進回送は、上野駅~尾久の操車場間だけで行われていたものですが、客車列車の最大の特徴であるところは、折り返しでは機関車を付け替える必要がある、というものです。
上野駅地平ホームでは付け替えが出来ないので、車庫へ向かう時と、車庫から上野駅へ向かうときは逆向きに走っていくわけですが、もし上野駅到着の列車がそのまま折り返してどこかへ行く運用の場合はどうなるのか?ですけど、それはありませんでした。
これが昔の列車運用の特徴であったもので、ある程度の距離を走行する列車は、車庫(操車場)で整備を行い、片道走行するたびに車庫(操車場)へ収容して掃除など次の仕業の準備をして、そして始発駅へ向かう、ということをやっていました。
なので、大きな駅の構内や近傍に客車操車場があったもので、上野駅では尾久客車区、東京駅だと品川運転所、名古屋駅だと名古屋客車区、大阪駅だと宮原客車区、です。品川運転所の他は現業機関名としては改称されながら現在も存在しています。
鹿児島の話をしますと、鹿児島本線・日豊本線の終点は鹿児島駅ですが、両線とも鹿児島駅始発終着の列車は少なく、殆どの列車、特に長距離の列車は全て西鹿児島駅、現在の鹿児島中央駅発着でした。理由はすこぶる簡単で西鹿児島駅に鹿児島運転所があったためです。
そのため長距離列車の鹿児島における行き先は「西鹿児島行き」で西鹿児島駅が実質的な鹿児島市の代表駅に。
時代は下がり、新幹線開業では西鹿児島駅に設けられることになり、鹿児島中央駅に変わったという変遷。
こうして、車庫(操車場)で始発前の整備を行った客車が始発駅に据え付けられ、行き先地に向けて出発→行き先地に到着、行き先地の車庫(操車場)へ入区、というのが片道の仕業。
なので、駅で折り返しを行って運用する、という思想はありませんでした。
折り返しをしてすぐに次の列車に充当する思想は「電車」の発想で、客車はいわゆる「汽車」の世界、折り返して運用するものではありませんでした。
この電車の思想を汽車の世界に持ち込んだものが、1950年(昭和25年)登場のモハ80形、通称湘南電車で、長距離ではなく、東京駅~沼津駅間の中距離列車ですが汽車の世界に電車列車が登場し、東京駅ではホーム折り返しの運用をおこないました。
当時の客車列車でも、中距離である沼津駅近辺までの列車は、ホーム折り返しでしたが、当然機関車の付け替え、という大きな作業を伴っていましたので、この湘南電車の登場は、運用の思想に大きな変化を与えたものです。
現在、特急列車が車庫へ帰らずに、駅ホームに停車したまま車内整備をして折り返して次の列車に就いていますが、これも電車の思想と汽車の思想が交じったものです。電車はすぐに折り返す、汽車は操車場で整備を行う、この車内整備を駅ホーム停車中に行ってしまうので、車庫への回送時間が節約でき、運用本数を減らすことができたり折り返し時間を短縮することで設定列車回数を増え、それがひいては増収につながるものです。
昨日の推進回送の話に関連して。車庫への行き帰りの回送列車は本体列車の列車番号に「回」の字をを付けた列車番号を付与しますが、推進回送を上野・尾久間の推進回送を行う場合は「推回」との文字を付けます。
上野発札幌行きの特急・北斗星は、列車番号が「1」でしたが、これが尾久から上野へ向かう回送列車は「推回1」でした。
車庫から駅への回送ではこんな話もあります(した。過去形)。東京駅から寝台特急が多数運転されていた頃、末期は東京駅ホームが新幹線転用で、在来線の線路数が減ってしまい、機回しができなくなってしまいました。東京駅発の寝台列車は全て電気機関車牽引の列車です。
そこでこんな方法をやっていました。
東京駅では、さくら・はやぶさ・みずほ・・・・の順で発車しており、品川の車庫から出発する時は一つ後から発車する機関車を着けて東京駅へ向かいます。東京駅到着で機関車を切り離し、機関車は神田駅方の引き上げ、有楽町駅方の機待線に待機の機関車を連結して、目的地へ発車、ということをやっていました。
神田駅方の引き上げ線に引き上げた機関車は、寝台列車が発車していった線路を通り、有楽町駅方の機待線へ入り、本来牽引する客車の回送を待ちます。
よく分からない文章ですね。つまり事前に「さくら」のヘッドマークを付けた機関車を東京駅まで回送しておき、さくら号の次に発車するはやぶさ号のヘッドマークを着けた機関車が、さくら号の客車を引っ張って東京駅まで回送します。
東京駅到着で、はやぶさの機関車は神田駅方へ逃げ、有楽町駅方のさくらの機関車をさくら号の客車に連結して16:30に発車。
開いた線路を通り、はやぶさの機関車は有楽町駅方の機待線へ移動。
しばらくして、みずほのヘッドマークを付けた機関車がはやぶさ号の客車を引っ張って東京駅に到着、有楽町駅方の機待線に待機のはやぶさ号機関車を連結して発車・・・、こういうことを繰り返して順次やっていました。その日最後に発車する寝台列車の品川からの回送を引っ張った機関車は、次の列車が無いので、そのまま車庫へ帰ります。
ちょっと客車の回送から回顧話でした。