なにやらよく分からないタイトルですね。ようするに日常、多くの方がなされている事柄にも、よくよく考えれば間違っているものの、皆がなされていることから、当たり前のように実行されているもののお話。
その代表例が言葉。いわゆる「誤用」がいつのまにか定着してしまい、今ではその誤用が正しいものともされてしまう言葉もあります。
時々、文化庁の日本語世論調査が発表されますが、多くの方が間違った使い方をしている言葉に「雨模様」。
これ本来は、雨が降りそうで降らなさそうで、はっきりしない天気の様子のことですが、多くの方(ほぼ全て?)が、雨が降っている様子、という意味で使っておられると思います。
さらに「穿った見方」。これ、本来は本質をうまいこと捉えた見方の表現ですが、どうもひねくれた見方、という意味に捉えている方が多いです。
「姑息」。これ本来は、一しのぎ、或いはその場しのぎの小手先の意味、でありますが、多くの方は、卑怯だとか、単に良くないの意味で使っておられます。
「元日」と「元旦」。これは何度かブログで書いていますが、1月1日が元日で、その元日の朝が、元旦なのですが、今はこの両者、混用と言うか、元旦の語が元日の意味にとって代わられようとしています。
これら、普通に多くの方は、何の戸惑いも無く、誤った使い方をなされ、それが誰でも、という環境になると結果的に普遍的な用法となり、誤りが定着してしまいます。言葉というものは、そうして変化してきた結果が今日の言葉なのですが、出来事としての正しい/間違いとなると、場合によっては人の身体・生命にもかかわってきます。
というのは、エスカレータでの片側開けは、もはや常識で正しい乗り方、とされています。関東では左側立ち右空け、関西では右側立ち左側開け、というのが「常識」です。
しかしこの片側開けは、間違った乗り方です。
第一に機械的な点で。エスカレータの踏み段の片側に荷重が集中すると、ベルトや滑車の部分に偏った摩耗が生じ、結果的に故障につながります。
第二に、こちらがむしろ重要。片側開けは、エスカレータを急いで歩く人のために空けるものですが、この急ぐ=追い越す際に止まって乗っている人の体や携行品に当たって、転落事故に至るおそれがありますし、実際にそうした事故は過去に起きています。
なので身体・生命を守る、という点でもエスカレータの片側開け、片側歩行は大きな間違いなのですが、この大きな間違いが常識化して、これが正しいとまで認識されています。
ちなみに、このエスカレータ、私は危険なので乗りません。お年寄りがエスカレータの踏み段に中々乗れないでいる光景を目にしますが、私は逆で、踏み段から床に立つ(降りる)時が危ないので、なるべく乗らないようにしています。
杖携行ですと、移動する踏み段から移動しない床に立つには、微妙なバランスが必要で、その際に、後ろに人がいると、その後ろの人が追い越しにでもかかると杖を当てる先が無くなり、大変危ないです。
間違いでも、多くの人が実行すれば常識となるの話、時々書いていますが、道路交通の場で。自動車を運転される方は、道路交通法を厳守よりは、自動車運転の常識に沿って運転されます。
制限速度が指定されていれば、大体それより+10km/hで走行。30km/h制限などというものは非常識で、走行出来る道路であば60km/hが目標などと。(我が家の前の道路)
こうして、間違ったことでも、多くの人が実行することによって、それが「常識化」していきます。
***追記***
言葉の点で、「ら抜き言葉」というのがあります。「見ることができる」などの可能性としての言葉。本来は「見られる」ですが、これを「見れる」などといった言葉が「ら抜き言葉」。これ「見られる」というと、見ることができる、の意味なのか敬語なのかよく分からん、の理由で「見れる」の用法が一般化しています。
しかし本来は「見られる」が正しく、私はそう使っています。が、名古屋国際センター発行の外国人向けひらがな新聞で、こんな記事がありました。日本語学習者向けのメッセージとして、「ら抜き言葉」は間違った使い方ですが、今では「らを入れた言葉が間違いであると認識している日本人もいます」という一文。
いいか良くないかは別にして、今日的の日本語の用例を伝えた記事だと思いました。
その代表例が言葉。いわゆる「誤用」がいつのまにか定着してしまい、今ではその誤用が正しいものともされてしまう言葉もあります。
時々、文化庁の日本語世論調査が発表されますが、多くの方が間違った使い方をしている言葉に「雨模様」。
これ本来は、雨が降りそうで降らなさそうで、はっきりしない天気の様子のことですが、多くの方(ほぼ全て?)が、雨が降っている様子、という意味で使っておられると思います。
さらに「穿った見方」。これ、本来は本質をうまいこと捉えた見方の表現ですが、どうもひねくれた見方、という意味に捉えている方が多いです。
「姑息」。これ本来は、一しのぎ、或いはその場しのぎの小手先の意味、でありますが、多くの方は、卑怯だとか、単に良くないの意味で使っておられます。
「元日」と「元旦」。これは何度かブログで書いていますが、1月1日が元日で、その元日の朝が、元旦なのですが、今はこの両者、混用と言うか、元旦の語が元日の意味にとって代わられようとしています。
これら、普通に多くの方は、何の戸惑いも無く、誤った使い方をなされ、それが誰でも、という環境になると結果的に普遍的な用法となり、誤りが定着してしまいます。言葉というものは、そうして変化してきた結果が今日の言葉なのですが、出来事としての正しい/間違いとなると、場合によっては人の身体・生命にもかかわってきます。
というのは、エスカレータでの片側開けは、もはや常識で正しい乗り方、とされています。関東では左側立ち右空け、関西では右側立ち左側開け、というのが「常識」です。
しかしこの片側開けは、間違った乗り方です。
第一に機械的な点で。エスカレータの踏み段の片側に荷重が集中すると、ベルトや滑車の部分に偏った摩耗が生じ、結果的に故障につながります。
第二に、こちらがむしろ重要。片側開けは、エスカレータを急いで歩く人のために空けるものですが、この急ぐ=追い越す際に止まって乗っている人の体や携行品に当たって、転落事故に至るおそれがありますし、実際にそうした事故は過去に起きています。
なので身体・生命を守る、という点でもエスカレータの片側開け、片側歩行は大きな間違いなのですが、この大きな間違いが常識化して、これが正しいとまで認識されています。
ちなみに、このエスカレータ、私は危険なので乗りません。お年寄りがエスカレータの踏み段に中々乗れないでいる光景を目にしますが、私は逆で、踏み段から床に立つ(降りる)時が危ないので、なるべく乗らないようにしています。
杖携行ですと、移動する踏み段から移動しない床に立つには、微妙なバランスが必要で、その際に、後ろに人がいると、その後ろの人が追い越しにでもかかると杖を当てる先が無くなり、大変危ないです。
間違いでも、多くの人が実行すれば常識となるの話、時々書いていますが、道路交通の場で。自動車を運転される方は、道路交通法を厳守よりは、自動車運転の常識に沿って運転されます。
制限速度が指定されていれば、大体それより+10km/hで走行。30km/h制限などというものは非常識で、走行出来る道路であば60km/hが目標などと。(我が家の前の道路)
こうして、間違ったことでも、多くの人が実行することによって、それが「常識化」していきます。
***追記***
言葉の点で、「ら抜き言葉」というのがあります。「見ることができる」などの可能性としての言葉。本来は「見られる」ですが、これを「見れる」などといった言葉が「ら抜き言葉」。これ「見られる」というと、見ることができる、の意味なのか敬語なのかよく分からん、の理由で「見れる」の用法が一般化しています。
しかし本来は「見られる」が正しく、私はそう使っています。が、名古屋国際センター発行の外国人向けひらがな新聞で、こんな記事がありました。日本語学習者向けのメッセージとして、「ら抜き言葉」は間違った使い方ですが、今では「らを入れた言葉が間違いであると認識している日本人もいます」という一文。
いいか良くないかは別にして、今日的の日本語の用例を伝えた記事だと思いました。